欧州の中世・近世都市

西洋建築史都市計画
マンジャの塔から見下ろしたカンポ広場
マンジャの塔から見下ろしたカンポ広場  出典:アーモイタリア シエナ公認ガイド:山本 春美

ヨーロッパ中世封建社会

 封建社会は荘園制で成り立ち、騎士や貴族の荘園領主は、農民に対し徴税権を行使し主従関係を結んだ。

 農奴に自由はなく、苦しむ貧困層を救済する役割は、活動資金を托鉢で集める修道会が担っていた。ドメニコ会やフランチェスコ会など、都市の周辺部に修道院を建てて活動を拡げた。

 荘園内の生産が安定して増大すると、商業が発達し商人集落も現れた。

城郭都市

 城壁で周囲を囲み、堅固に防御した都市を指す。コンスタンティノープル、バグダード、パリ、ウィーンをはじめ、地続きで外敵の侵入のリスクに晒された大陸の主要大都市は、ほとんどの場合高い城壁が備えられた。

 城塞(シタデル)の周囲に住居を配した城郭都市に、バレッタ(マルタ)、アヴィニョン(仏)、カルカソンヌ(仏)、アビラ(スペイン)、サンマリノ、ルクセンブルグなどがある。

 大砲が発達した近世になると、高さを抑え実戦的な稜堡を備える星形要塞が主流になった。パルマノーヴァ(イタリア)は、16世紀末スカモッツィにより計画されたルネサンスの理想都市として知られるが、9角形の星型の城郭都市で、濠に囲まれ9つの砲台を持つ。

星稜都市パルマノーヴァ
星稜都市パルマノーヴァ  出典:ウィキペディア 写真提供者:IlirikIlirik

司教座都市

 ローマ・カトリック教会の権威が確立し、キリスト教の司教を置いた都市が、司教区の中心として宗教的、政治的に重要な地位を占めるようになる。周辺の荘園から人や物資が集まり、多くは中世都市の起源となった。司教座都市から発展した都市に、ドイツ・ラインラントのケルン、マインツ、トリーア、フランスのボルドー、トゥール、イタリアのミラノなどがある。

 近郊の農村との交易が行われ、都市の中心部に信徒のための大聖堂を建設し、その前面に広場を設け、仮設店舗による定期市が賑わっていく。

自治都市の繁栄

 11~13世紀、商工業の発展に伴って資産を増大させた都市貴族が登場する。大商人層や手工業者は共同でギルドを結成し、貢納や領主裁判権といった封建領主の支配から自治権を獲得していく。

 周囲を城壁や濠で囲み、市民による自由自治で成立する城塞都市が生まれる。市の政治や司法の場として市庁舎を建て、前面の広場で市政の布告や罪人の処罰が行われた。扇形で美しいシエナカンポ広場(1310年)が著名である。

 中世都市の多くは、安価に大量輸送ができる海運や水運のネットワークを持つ港湾都市であり、経済圏を支配する活動拠点であった。北海沿岸のフランドル地方は毛織物業や商業が盛んで、ベルギーのブリュージュやアントワープ、ヘントなどがある。

 北イタリアでは、コムーネと呼ばれる都市共和国が登場し、政治や軍事面からロンバルディア同盟を組んだ。地中海の通商権を握り東方貿易で繁栄した港湾都市に、ヴェネツィアやジェノバ、ピサなどがある。また、毛織物業や金融業で栄えた内陸都市に、フィレンツェやミラノなどがある。

 ドイツでは、軍役と納税義務の代わりに、神聖ローマ皇帝から勅許状を得て自治を行う自由帝国都市が生まれた。バルト海沿岸で経済面からハンザ同盟を結んだハンブルク、リューベック、ライン川流域のフランクフルト、ドナウ川流域のアウクスブルク、内陸部のニュルンベルクなどがある。

特色のある中世都市

 ヴェネツィアは、アドリア海の女王と呼ばれ、ラグーナ(潟)の上に築かれ、運河が縦横に走る水の都である。名目上東ローマ帝国に属したが自治権を持ち、697年初代総督を選出し独自の共和政統治を開始。828年福音書を記した聖マルコを守護聖人とし、地中海貿易で繁栄した。

 アマルフィは、アマルフィ公国として自立し11世紀強盛を誇った海洋国家で、周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、サレルノ湾の奥の小さな浜から断崖上に向かって築かれた街である。

 サン・ジミニャーノは、権力争いの名残で高い塔が建ち並ぶ。ローマとトスカーナ地方を結ぶ交易路にあり、自治都市として栄えた。最盛期には70を超える塔が建った。

 ドゥブロブニクは、15,16世紀に最盛期を迎えたラグサ共和国時代に、海洋貿易で栄えた都市国家であった。アドリア海の真珠と謳われる美しい街並みを誇る。

 パレルモは、シチリア島最大の都市で、国際色豊かな独自の文化を生み出した中世シチリア王国の古都である。

中世都市の光と影

 大聖堂や市庁舎、マーケットなどの前面広場を中心に、町家は自然発生的に無計画な増改築を繰り返し、中世都市は無秩序で雑然とした空間であった。

 防衛のため市壁で囲まれ、町家は高層化し数階建ての高さになった。住居の敷地は、間口が狭く奥行きの長い短冊形で、背後に裏庭や菜園が付随した。

 英仏独の町家は、ハーフティンバーの木骨真壁造が一般的で、1階の街路に面して店舗を並べ上階が街路の上に迫り出したので、通風・採光が十分に得られない劣悪な環境であった。

 古代ローマのように、病院、大学、浴場など多くの公共施設が建てられたが、逆に都市のインフラは全く未整備の状態であった。上水は共同の水汲み場を使用し、下水設備はなかった。

 未舗装で狭い街路は不規則に屈曲し、路肩に塵芥や汚物が放置されていた。不衛生極まりなく、14世紀に蔓延ったペストのように、伝染病が頻発した。

バロック的近世都市

 16世紀後半カトリック教会は、ローマを世界の都にふさわしい威容を誇る「聖都ローマ」に変容させた。記念碑的宗教建築である大聖堂と広場を直線や放射線の街路でつなぎ直し、美のネットワークによって都市空間を劇的に演出し壮麗化する再開発を行った。

 フランスでは、雑然とした中世的な都市であったパリに、17世紀の歴代の国王が軸線に沿って広場を整備し、整然とした秩序をもたらした。凱旋門からシャンゼリゼ通り、オベリスクの立つコンコルド広場を経て、ルーブル宮に至る都市軸を築いた。

 イギリスでは、1666年ロンドンが大火に見舞われた際、クリストファー・レンは壮大な都市復興計画を構想した。大地主の反対により実現しなかったが、主要なモニュメントや広場を直線と放射状の街路で結ぶ提案をした。また、家屋の不燃化や道路幅員の拡張など都市防災のための法制度を整備し、今日に続く都市の骨格を形成した。

コメント