バロック建築

西洋建築史
サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会堂 天蓋 出典:ウィキペディア(photo by LivioAndronico, CC)

バロック建築のはじまり

 メディチ家出身のローマ教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂の建替えに必要な資金を調達するため、贖宥状(免罪符)を乱売した。1517年マルティン・ルターはこれを批判し、福音主義を唱え宗教改革運動を起こした。それに伴い、プロテスタント教会が袂を分かち発足する。

 腐敗を糾弾されたカトリック教会は、対抗宗教改革を起こして組織の立て直しを図る。ローマ法王庁の教皇や枢機卿は、芸術の力によって民衆の感情に訴える説教を行い、政治的権勢を取り戻そうとした。パトロンとなって壮大な教会や宮殿の建設に注力し、建築空間にプロパガンダの役割を担わせた。恍惚とさせるような劇的で幻想的な空間表現によって信者を魅了し、カトリックの権威と尊厳を人心に深く浸透させていった。

 また、1534年男子修道会はイエズス会を創設し、カトリック信仰の宣教活動を開始する。大航海時代の波に乗り、地球規模の布教活動を展開した。特に中南米やアジア各地に、今もバロック様式の教会堂が多数残っている。

バロック建築の特徴

 古典建築のオーダーと比例の規範に則る点は共通しているが、ルネサンス建築が、静的な均衡と調和を基本とし正円を理想形としたのに対して、バロック建築は、動的で劇的な効果を求め楕円を象徴的に用いた。古典モチーフを変幻自在に扱い、観る者に圧倒的な強い衝撃と愉楽を与えることを意図した。バロックは、「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語のバロッコに由来する。

 ルネサンス時代に培った建築技術を礎に、表現が抑制的であったマニエリスムを超越し、巨大なスケールや圧倒的なマッス、雄大なヴィスタ、曲線や曲面の多用、複雑な立体構成、遠近法を誇張した距離感の伸縮、錯視の利用、光と影の強烈な明暗のコントラスト、色彩豊かで過剰な装飾など、建築的要素を自由奔放に駆使し、立体感と流動感に充ちた荘厳で神秘的な空間を創造した。

 さらに、建築・絵画・彫刻が渾然一体となった世界を目指し、光線や音楽の効果まで織り込んだ総合芸術として、豪華絢爛な建築空間を築いた。

イル・ジェズ型ファサード

 イル・ジェズ教会堂(1584年竣工,ローマ)は、ヴィニョーラが設計したイエズス会の本部教会堂である。信者による大規模な集会を実現するため、ルネサンス期に一般的であった集中堂式とせず、交差部に大きなクーポラを載せたバシリカ式教会堂とした。側廊を持たず、堂内を壁画や彫刻で一体的に装飾し、劇場の様な説教空間を形成した。顔となるファサードは、2層構成とヴォリュート(渦巻き装飾)で飾ったマニエリスム様式とした。

 カルノ・マデルノは、先のイル・ジェズ型ファサードをさらにバロック化して、サンタ・スザンナ教会堂(1603)を建てる。柱の間隔と凹凸を変則的に扱い、ファサードの中央部に表現の力点が置かれ、起伏と変化のある動的な造形の萌芽が見られる。

盛期イタリア・バロック

 ミケランジェロ設計による集中堂式の大ドームが完成したサン・ピエトロ大聖堂は、マデルノによって西側にバシリカ式の身廊が継ぎ足され、巨大な円柱が並ぶファサードが追加された(1626)。さらに、万能の人ベルニーニは、大列柱廊(コロネード)で囲んだ楕円形広場を大聖堂前に創出した。聖堂正面上階のバルコニーに立つ法王が、広場に集う全ての市民や信者に向かって祝福の言葉を投げかける。ローマ・カトリック教会という絶大な権力を象徴する、都市的スケールのバロック的祝祭空間が完成した(1667)。

 恵まれた建築家ベルニーニと並び称され、バロック建築を代表するもう一人の天才がいた。不遇の生涯であったボッロミーニである。彼は、サン・カルロ・アッレ・クァットロ・フォンターネ教会堂(1646)の改修において、楕円縦長平面形を用いて、集中堂式の精神と長堂式の機能を同時に充たす、ダイナミックで一体感のある空間を生み出した。蜂の巣形状の楕円形ペンデンティブ・ドームや波打つ壁によって、内外を劇的にまとめ上げた建築は、極めて独創的で「イタリア・バロックの精華」と謳われる。

バロック都市 ―祝祭的空間―

 1585年教皇シクストゥス5世は、ローマ市内の教会堂と前面広場を放射状の直線道路で結び、広場や道路のアイストップにオベリスクや記念碑を移設し、巡礼者に教会の威光を体感させる劇場的なバロック都市、すなわち「聖都ローマ」への整備事業に着手する。

 バロック建築の設計手法が、広場や庭園、階段、噴泉や池などに使われ、ナヴォナ広場、スペイン階段、トレヴィの泉など、傑作が今も都市を彩っている。

ヨーロッパ各国への伝播

 バロック建築は、16世紀末期イタリアに始まるが、建築家に多面的で豊かな才能を要求するとともに、建築主にも極めて大きな財力や権力を要求した。

 周辺諸国は、イタリアの建築家を招聘、あるいはイタリアへ建築家を派遣して、バロック様式を取り入れ、自国の風土や伝統文化に融合させながら発展させていった。 

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