京都東山 石塀小路 その1

計画手法都市遺産
三層の石垣で構成されたタウンハウスの小路
三層の石垣で構成されたタウンハウスの小路   photo by Kazuya2078(free photo:写真AC)

今も残る京都の風情のある小路

 私は大学時代、情緒があって心惹かれる「小路」を探し求めて、京都市内を巡って歩き回り、自らの感性のアンテナを拠り所に50近くを選出し、実測作業を通じてその魅力の解明を試みました。

 拙いながらも修士論文「京都における小路空間の構成に関する研究」にまとめることができました。
その後当時の川崎清教授をはじめとする諸先生方によって、京都空間の研究として「仕組まれた意匠」が出版され、その中の一節に私の論文を組み入れて頂きました。

 その中でも特に感銘を受け印象に残っている小路空間であった「石塀小路」について、外部空間ではありますが、幾多の人々の思いが込められた建築空間として、今回取り上げてみたいと思います。

石塀小路の成り立ち

 石塀小路は、京都東山の高台寺通りと下河原通りをつなぐ通り抜けの路地(辻子)であり、現在その一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、観光客で賑わっています。

 平安時代の昔から、東山一帯は花見客で賑わい文人墨客を集め、次第に芸能文化が栄えました。

 慶長年間高台寺が創建されてから、豊臣秀吉の正室北政所ねねが、山猫と呼ばれた見識が高く舞芸の達者な女たちを招き、その女性たちは高台寺の東隣に当たるこの地に集まって居を構えていたといいます。周囲には円徳院や春光院、六阿弥(安養寺の子院)といった多くの寺院なども建てられ、文化サロン的に使われることもあったようです。

 さらに元禄のころには、お茶屋や花街もできていたらしい。

 明治時代の末期に、今でいうディベロッパー(不動産開発業者)が、かつて暴れ川であった菊渓川の下流河原で藪地になっていたところを買い取り、大正時代の初め頃に、一戸建ての借家街を造る目的で開墾を始めたようです。

 当時の京都の借家は10軒くらいの長屋が連なったものが一般であったので、思い切って京都の旦那衆など富裕層を対象に最高級の借家を建てることにして、北側半分を高級住宅街に、南側を席貸し(お茶屋)にと考えて開発を進めたのだそうです。

 その後、全体の多くが席貸しになったり、旦那衆の別宅や妾宅にも使われた時代があったらしい。今では、料亭や旅館、喫茶や土産物の店舗などにも利用されているようです。

石塀小路の魅力の秘密

 実際に石塀小路に行くと、まず、誰もが通りに自由に入ることができますが、よそ者の介入を拒むような私的な領域を感じさせます。プライバシーを守る雰囲気や機能があることが読み取れます。

 それは、結界を暗示する門、スケール感、奥にあるものの存在を隠すかのようにくの字に曲がった小路の平面的な形状などから生まれていると思われます。

 さらに、建物内部を隠す空間構成や、光沢のある石の素材感、女名前の表札、門灯などが、艶やかな風情を感じさせる様相を演出しています。

 また、繊細な高級感格調の高い雰囲気が感じられます。三層の石塀や格子戸付きの腕木門が繰り返し続きますが、その全体構成はすべて同じながらどれにも少しずつ違いがあって、じっくりと見ていくとそれぞれの個性や独自性を表現していることがわかります。

 一見さんお断りのお茶屋筋に連なる閉鎖的な板塀に、洗練されたディテールや格式の高い造作を窺い知ることができます。

 歴史と文化が連綿と続く生命の流れの中で、脈々と築かれ集積された人々の営為の記憶風土や生活感覚の機微、京都らしい美意識、秘められた自尊心、といった、目に見えない力が輻輳して作用し合い、時代の変革期における進取の気性がさらに加わることによって、今の姿が出来上がっていることを理解することができます。

 積み重なった思いが空間形成のプログラムとなり、環境を成立させる様々なエレメントが密接に絡み合いながら再構築され、総体的にまとまった空間のアイデンティティを生み出していることがわかります。まさに、前回お話しした「holistic architecture」 を実現した好例と言えます。

 次回は、石塀小路の空間構成の技法について考えてみたいと思います。

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