浄土寺浄土堂

日本の名建築
浄土寺浄土堂の阿弥陀三尊立像
浄土寺浄土堂 阿弥陀三尊立像  出典:ウィキペディア 写真撮影:おぉたむすねィく探検隊(推定)

 太陽光を巧みに建築空間に取り込んだ事例を、今回は日本建築から取り上げてみます。

 兵庫県小野市の田園地帯に、浄土寺浄土堂(阿弥陀如来堂)がある。東大寺再興に尽力した俊乗坊重源上人が、大仏様天竺様ともいう)と呼ばれる中国の宋に学んだ建築様式を採用し、熱烈な阿弥陀信仰者であった仏師快慶との協同作業を通して、1194年に建立したものです。

 東方浄瑠璃世界の教主薬師如来を祀る本殿の薬師堂が、浄土寺境内の東側に設置されており、それと対を成すように、西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を祀る浄土堂が、境内中央の池を挟んで境内西側に配置されています。

 浄土堂方三間の簡潔明快な平面構成をしていますが、一間が6m近くもあり、約18m四方のかなり広く規模の大きなお堂になっています。格段に広い柱間を実現できたのは、基礎から屋根まで延びる通し柱を用い、さらにその柱に穿たれた孔に通された水平材(貫)を楔で緊結しているためです。この新技術のお陰で、少ない柱の本数で大空間を支えることが可能になりました。

 四隅は放射状に拡がる朱塗りの扇垂木が採用されています。宝形造り、本瓦葺きの屋根は、平面の割に立ちが低く、屋根形状をつくる線はほとんど反りがなくて直線的です。軒の遊離尾垂木、軒先の鼻隠し板など、これらの建築技法は、軒の高さを抑え、木材の使用量と重量を削減し、加工の手間を軽減する効果がありました。そして、簡素でありながら豪壮な印象を与えます。

浄土寺浄土堂
浄土寺浄土堂  出典:ウィキペディア 写真提供者:Naokijp

 堂内には、金色に塗られた快慶作の阿弥陀三尊立像(中尊:阿弥陀如来、脇侍:観音菩薩、勢至菩薩)が、中央の円形の須弥壇の上に安置されています。

 阿弥陀如来像は高さ5.3m(須弥壇を含めると7.5m)の巨大な仏様です。この三尊を取り囲む4本の柱(四天柱)のそれぞれに、三方から太い円形断面の繋ぎ紅梁が三段に架かり、太い円束と挿肘木による組物が支えています。広い堂内空間を生む豪快な構造手法です。

 天井を貼らずに、梁や束などの構造を剝き出しに露出した化粧屋根裏は、構造自体の建築的な美を見せる大仏様の大きな特徴であり、内部空間に強い上昇感を伴った比類を見ない躍動感が溢れます。また、白く塗られた屋根裏に並列する朱塗りの垂木が、光の放射するさまをイメージさせます。

 夕陽が西の彼方に傾く時、堂の西面の柱間全面に設えられた跳ね上げ式の透蔀(すきじとみ)を開け放つと、背後から、特に夏至のころは真後ろから、西日が射し込み、鏡面のように磨かれた木の床を乱反射し、堂内全体を朱赤に深く輝くように染めていきます。 

 西を背に東を向いて立つ仏像の背後から、後光が射したように三尊像が浮かび上がります。刻々と移ろう光と影が阿弥陀如来の来迎を予感させます。快慶は、蓮華座の下に雲を表し、わずかに三尊を前傾させることによって、あたかも仏が西方極楽浄土から飛雲に乗って来迎するかのような動的な情景を表現しました。

 劇的な光の演出効果を生む技法を駆使した重源の空間構成力と、快慶の造形力との見事なコラボレーションよって、この世の浄土を出現させ悩み苦しむ人々を救いたい、という願いと思いを実現させたのです。

 これまでの仏殿が堂外から礼拝するもので、限られた者しか堂内に立ち入れなかったのに対して、この阿弥陀堂では、大勢の人々が堂内に入れるように、そして仏を間近に拝することができるように、開放的でオープンな設計になっています。快慶の三尊像を仰ぎ見て、人々は目の当たりに仏の存在を感じたに違いありません。

 平安時代の仏像のように彼方の彼岸にいて瞑想する仏ではなく、現世に飛来する阿弥陀如来の境地を演出したのです。源平の戦いが続き、東大寺も焼き討ちに遭い、いよいよ末法の世が現実のものとなったような時代に、仏教は限られた貴族や国家鎮護のためだけでなく、庶民の間近に寄り添ったわけです。

 西から入る光が極楽浄土を出現させる、この浄土堂で重源が生み出したドラマチックな空間の構成方法と技法を用いて、建築家の安藤忠雄先生が兵庫県淡路市にある本福寺本堂の水御堂において、その思いを新たに再現し、1991年に竣工させています。

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