ドイツ古典主義建築史

西洋建築史
ザンクト・ヨハン・ネポムク聖堂  出典:fotocommunity.de

北方ルネサンス

 イタリア人以外の手になるルネサンス建築は、フロリスによるアントワープ市庁舎(1565/アントウェルペン)であった。オーダーによって分節された均整の取れたファサードと反り屋根を持ち、張り出した中央部に大きな破風を立ち上げ、双柱、ニッチ、渦巻き装飾、オベリスクなどの装飾を施した。

 フロリスは、イタリア遊学を活かして建築装飾の図案集を刊行し、革紐細工を思わせるストラップワークが広まった。

 正面に過剰に装飾した破風を立て垂直性を強調する手法は、特に市庁舎において推進され、ライデン市庁舎(1603/ネーデルランド)やエリアス・ホルのアウグスブルグ市庁舎(1646)などに継承された。

 しかし、30年戦争(1618-1648)がドイツを舞台に起こったため、建築界は停滞し、ドイツ・ルネサンス建築はそれ以上の展開を見せなかった。

後期バロック・ロココ

 カトリック教の神聖ローマ帝国皇帝軍とプロテスタント諸国が対立し、ボヘミア(べーメン、チェコ)で勃発した30年戦争は、ハプスブルク家とブルボン家の抗争が絡み、欧州全体最大の国際紛争となった。1648年ウェストファリア条約により終止符を打ったが、ドイツは人口が4分の1に激減するほど荒廃した。

 300の領邦に分裂して、神聖ローマ帝国は事実上解体する。主権国家体制に移行するが、フランスとスウェーデンが台頭し、オランダが独立する。ドイツは、ハプスブルク家の女帝マリア=テレジアが君臨するオーストリアと、啓蒙専制君主であるフリードリヒ2世が率いるプロイセンの大きく二つに分裂した。

 当然バロック建築は遅れて入り、ゴシック末期、バロック、ロココが、18世紀の同時期に混交して発展することになる。イタリア・バロックとフランス・ロココの影響を大きく受け、劇的な造形性と技巧に富んだ装飾性が奔放に展開された。

オーストリア・バロック

 教会を守護する任務を負う神聖ローマ帝国の理念が残ったため、ローマ・バロックの影響を強く受け、独特の造形が生み出された。

 凹型の平面構成で中央の円形ドームと左右対称の双塔を持つ聖三位一体聖堂(1702/ザルツブルグ)は、ボッロミーニ風のバロック様式である。

 ペスト流行の折に皇帝カール6世が寄進したカールス教会堂(1737/ウィーン)は、楕円形の身廊の上部に縦長のドームを載せる。ファサードの中央にローマ神殿風のポーチを置き、左右にトラヤヌス帝の記念柱を模倣した塔を立て、さらに両側に塔上のパヴィリオンを配し、さまざまな建築様式の統合を試みている。建築家のフィッシャー=フォン=エルラッハは、「歴史的建築図集」(1721)を出版した。

 ドナウ川を見下ろすヴァッハウ渓谷に建つベネディクト会修道院(1714/メルク)は、ヤーコブ・プランタウアーの設計で、クーポラと双塔を翼棟が囲み、勇壮で記念性に富んだバロック宮殿のような景観を誇る。

ドイツ・バロック・ロココ

 プロイセン王国中心の統一国家となったドイツは、ロカイユを積極的に活用したバロック様式が発展した。また、石材が乏しい地域であったため、豊かな装飾の伝統と相まって、肉厚で彫刻的なスタッコ仕上げの技術が驚異的に発達した。数多くの名工が生まれ、眩惑する陶酔の境地に誘う幻想的様相を探求した。

 彫刻家の兄と建築家の弟になるアザム兄弟は、ザンクト・ヨハン・ネポムク聖堂(1750/ミュンヘン)を自費で建設する。光と色彩の効果を活かして、建築の構成要素と装飾的意匠の境界を融合させた幻想的な空間を創った。

 奇跡の涙を流したとされるキリスト像を祀り、ツインマーマン兄弟が生涯を賭けて築いたヴィースの巡礼教会堂(1757/バイエルン)は、白亜の素朴な外観とは対照的に、華麗なスタッコ装飾とフレスコ画に圧倒される内部空間を持ち、ドイツ・ロココの極致と称賛される。

 建築家フィッシャーとロカイユの名手ファイトマイヤーによるオットーボレイン修道院聖堂(1766/シュヴァーベン)は、身廊部・交差部・内陣部にスタッコの曲面ヴォールト天井を持ち、ダイナミックなロカイユ装飾が施されている。

 技術と数学に優れた建築家バルタザール・ノイマンが携わったヴュルツブルグ司教館(1744/ヴュルツブルク)は、ドイツ・バロック建築の最高峰といわれ、庭園群を持つ日の字型平面の豪華絢爛なレジデンツである。世界最大のフレスコ画が描かれた天井を支える柱のない皇帝階段や、煌びやかなロココ調の鏡の間などがある。

 羊飼いの前に14人の聖人が現れたという奇跡に因むフィアツェーンハイリゲン巡礼教会堂(1772/フランケン)は、イタリア・バロックよりもさらに複雑怪奇で装飾過多であり、ノイマンとスタッコ彫刻の名工ファイトマイヤーの手による、ドイツ・バロック建築の頂点と評されている。基本的にバシリカ方式を採用しているが、5つの楕円形と2つの正円を相互貫入させて流動的に結合し、幻想性を秘めながら渾然一体となって脈打つ、躍動感に充ちた内部空間を形成した。

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