ロマン主義の登場
理性重視の合理主義に対抗する形で、感性重視のロマン主義が登場する。合理主義が個人を超えた本質的な普遍的価値や規範を重視するのに対して、ロマン主義は個人を重要視し、優れた個性や芸術、変化を賞賛した。自然との一体化や、過去や異国を想起させる趣向に関与する、新しい感性を育てた。
二つの主義は、真の建築はどうあるべきか、という問いに対して、異なる考え方を示して絡み合いながら、近代建築の歴史を形成していった。
ピクチュアレスクの美意識
18世紀後半、絵のように美しい風景の形成を目指す建築思潮が現れる。漸次変化する自然をそのまま生かすイギリス式庭園や、東屋や廃墟など自然に溶け込む点景(フォリー)を添え、物語性や異国趣味のある景観に憧憬し愛好した。植民地のエキゾティックな表現も登場する。
中世古城風に改装し個人的趣向に徹した居館ストローベリー・ヒル(1777年,ロンドン近郊)が評判を呼び、多くのゴシックハウスが建てられた。フランスでも田園趣味が起こり、ヴェルサイユ宮のプティ・トリアノン庭園内に、農村風景を模した王妃の村里アモー(1786)が遺る。また、中国やインドへの関心から、王立植物園キュー・ガーデンズに中国風(シノワズリ)のバゴダ(1763,ロンドン近郊)、インド・イスラム風の離宮ロイヤル・パビリオン(1823,英ブライトン,J.ナッシュ)が建つ。
産業革命
1760年代、イギリスから産業革命が始まる。合理主義の成果として技術革新が起こり、工業化が進み大量生産が可能になった。新しい建築材料として鉄とガラスとコンクリートが登場し、組積造では成し得なかった建築を新構法が実現させていく。
植民地の熱帯植物用にガラス張りの温室が必要となり、ロンドンのキュー・ガーデンに巨大なヤシ温室(1848)が建設された。1851年ロンドン万国博覧会において、鉄と板ガラスの巨大な展示館クリスタル・パレス(水晶宮)が、パクストンの設計により実現する。徹底的なモジュール化と工場生産によるプレファブ化を図り、わずか4か月で完成させた。
1889年パリ博では、高さ300mのエッフェル塔や、115mの無柱の大スパンを誇る機械館といった、鉄骨造の巨大構造物が披露された。
ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア(1877)は、巨大な鉄骨ガラス屋根のショッピング・アーケイドの先駆けとなった。
それまで屋根や床の主構造であった木材が鉄材に替えられていく。耐火性と大スパンが可能な鉄骨は、大規模な建物の屋根やドームの構造を支える技術となった。さらに、19世紀後半になると、鉄骨の構造安定に引張り鋼棒が使われ、鉄はコンクリートで被覆されるようになる。
コンクリートの父と呼ばれるオーギュスト・ペレは、鉄筋コンクリート造の新技術を使って、古典的かつ近代的な芸術表現を試みた。フランクリン街のアパートメント(1904,パリ)やノートルダム・デュ・ランシー(1923,ランシー)がある。
中世主義
産業革命の進行と伴に、都市や労働環境の悪化、品質の劣る工業製品などの問題が顕在化した。その元凶は近代化にあるとして、前時代の中世に回帰すべきとする中世主義が起こる。
ピュージンは、当時の社会と中世を対比し、中世にこそ精神的に満ち足りた生活や誠実なモノづくりがあったと論証した。そして、ゴシックこそイギリス国民固有の民族的様式であると説き、ゴシック・リヴァイバルを提案する。鉄骨造を加えた垂直式ゴシック様式のイギリス国会議事堂(1860,ロンドン)はその代表例である。
ジョン・ラスキンは、著作「建築の七灯」(1849)で、質の高い建築は労働の喜びによってもたらされると主張し、近代の機械生産による資本主義社会を非難する。一方、中世の建築は絵画や調度など他の芸術を統合する大芸術であったと理想化した。
ウイリアム・モリスは、芸術は喜びの表現であり、中世のように手仕事を通して初めて達成できるとし、身の回りのモノに美的統一性をもたらすトータル・デザインを唱え、生活空間の美化を図る。アーツ・アンド・クラフツ運動(美術工芸運動)を推進し、自邸赤い家(1859,英ウェッブ)にその理想を結実させた。
ヴィオレ・ル・デュクは、修復作業を通して、ゴシック建築の構造合理主義理論を説き、構造や構成材料をそのまま直截に見せることを提案した。
結果的に彼らは、生産の機械化が進む工業化社会に問題意識を投げかけ、理想とする理念を中世に託して、近代建築の思想的基盤として「正直な表現」や「トータル・デザイン」を先駆的に提唱した。
歴史主義建築
19世紀には独創的な特有の様式が誕生しなかった。代わりに、西洋の過去の建築様式を復古的にモデルとする歴史主義が起こる。
デザイン様式の選択基準は、連想を基に正当化された。例えば、行政庁舎や銀行、博物館には、社会の普遍的規範に関わるため新古典主義やネオ・ルネサンス様式を、劇場や宮殿には華やかなネオ・バロックを、学校建築には修道院にルーツをみるネオ・ゴシック様式を多用した。
様式に優劣はなく、外観と内部空間や構造との整合性は消失する。形式化して一見節操がないが、歴史主義はビルディングタイプを一挙に多様化させた。
ラブルースト(仏)が設計した、閲覧室の円柱とヴォールトに華麗な鋳鉄を用いたパリのサント・ジュヌヴィエーヴ図書館(1850)や国立図書館(1868)は、軽快な内部空間を実現し、新たな古典主義の在り方を示したネオ・ルネサンス建築である
また、ネオ・バロック建築は国家の威信を最もよく表わす建築様式として採用された。スゴンタンピール(ナポレオン第二帝政)様式のルーブル宮新館(1853)や燦爛たるパリのオペラ座(1875)、宮廷劇場のウィーン王立歌劇場(1869)やブルク劇場(ウィーン,1888)、ドイツ国会議事堂(ベルリン,1894)、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂(ローマ,1911)などがある。
折衷主義
さらに、複数の過去様式や建築的語彙を自由に組み合わせ、折衷する作例も出現した。
歴史主義建築では、さまざまな様式が混在するのが特徴だが、折衷主義では、意図的に異なる様式を組み合わせて、独特の個性を表現しようとした。
ハンガリー国会議事堂(ブタベスト,1904)は、外部はネオ・ゴシック、内部はネオ・バロックという特異な形式をとった。
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