新古典主義建築

西洋建築史
パリのパンテオン
サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂(パリのパンテオン)  出典:パリ観光サイト「パリラマ Paris-rama」

理性によるネオ・クラシシズム

 18世紀後半になると、装飾過多・奢侈奔放に走り、古典の本質を見失ったバロック様式やロココ様式に対する反動が起こる。一方、1776年アメリカ合衆国独立、フランス革命(1789-99)、ナポレオン帝政時代(1799-1814)と続く、国民国家や自由主義帝国への時代が到来し、合理主義とヒューマニズムに則った啓蒙思想が結実していく。

 理性の力、すなわち本質的な価値や普遍性を重視する合理主義的な思想に支えられ、実験と観察によって真実を掴み取る科学の力によって、ルネサンス以降続いてきた古典主義の伝統に批判の矛先が向けられた。18世紀の半ば、西洋建築における近代化が始まったのである。

 科学的な考古学的実証を通じて、古代ギリシアや古代ローマの建築に建築の理想や規範を見ようとする新古典主義建築が登場する。

グリーク・リヴァイヴァル

 1830年、ギリシアがオスマントルコの支配から独立を果たす。

 中世以降の人々は、ギリシア建築の実地調査が不可能であったため、古代ギリシア建築そのものの存在を知らなかった。それ故、ルネサンス期の建築再生の対象は「古代ローマ建築」だと、みな錯覚していたのだ。ところが、オスマン帝国の衰退に伴って、ギリシャ文明の存在に邂逅し、『アテネの古代遺跡』(1794年)が実測され、パルテノンの全貌が図面化されると、ギリシア文明こそが西欧の文化・学問・芸術の源泉であったことが認知され、建築の理想として評価された。

 美術史家ヴィンケルマンは「高貴なる単純さと静かなる偉大さ」と称賛し、新古典主義の理論的支柱となる『ギリシア芸術模倣論』(1755)を著した。また、理論家ロジエは、著書『建築試論』(1755)に示した寓意画「原始の小屋」に象徴される円柱・水平梁・三角破風の三つが、樹木になぞらえて建築の本質的な構成要素であると唱えた。古代ローマ以来の組積造からギリシアの架構工法へ見直すことは、合理性のある理解であると説いた。

 サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂(パリのパンテオン)(1792,パリ)は、ギリシア十字の平面形を外観の形態にも率直に表し、簡素で巨大な列柱が並ぶ正面のポルティコと中央の三重殻ドームが印象的である。建築家のスフロは、大規模石造建築の軽快さと洗練性を追求し、ギリシア建築の純粋性柱梁の架構で表現しようとした。水平なエンタブラチャーを独立円柱のみで支えることで、外光で満ちた視界を妨げない内部空間を実現しようとした。しかし、構造上の破綻をきたし、後に厚い外壁や鉄材で補強し、すべての窓が塞がれた

 ラングハウス設計のブランデンブルグ門(1793,ベルリン)は、アテネのアクロポリスのプロピュライアを模倣しており、クレンツェ設計のヴァルハラ(1842,レーゲンスブルグ)は、外観をパルテノン神殿に模した英雄記念堂である。シンケルは、列柱廊玄関を持つ王立劇場(1821,ベルリン)や、イオニア式大オーダーをストア風に並べた正面とパンテオン形彫塑室を持つ古博物館アルテス・ムゼウム(1830,ベルリン)を設計した。

 スマークが設計した大英博物館(1828,ロンドン)は巨大なギリシア神殿であり、建築家ジョン・ソーンの自邸である博物館(1813,ロンドン)は、3連のテラスハウスの3層を拭き抜いた古代遺物陳列館であった。

古代ローマの栄光への回帰

 イタリアの画家兼建築家のピラネージ(1720-78)は、教皇の支援を受けてローマの古代遺跡や都市景観の研究を進め、壮大さと多様性を誇張したローマの再現を目指して、幻想的なイメージもの銅版画集を流布し、建築家に刺激を与えた。

 18世紀後半に蓄積された膨大なローマ帝国の考古学的研究の成果を基に、ナポレオン1世のフランス第一帝政時代(1804-14)に、皇帝の栄光とフランスの地位の宣伝を意図したアンピール(帝政)様式が流行する。ロココより直線的でシンプルなデザインで、均衡のとれた落ち着きがある。

 古代ローマの建造物を範として、フランスの戦勝記念碑であるカルーゼル凱旋門(1808)やエトワール凱旋門(1836)をパリの都市軸に据え、コリント式周柱式神殿を巨大化したマドレーヌ聖堂(1842,パリ)を建造した。

フランス合理主義的建築観

 フランス革命期、社会を完全に刷新する建築を探求する理論的活動が起った。立方体や球体のような純粋な幾何学形態を組み合わせ、細部の簡略化を特徴とし、単純化が極限まで進められた結果、実現不能なイマジネーションが構想される。だが、新しい建材や構造技術の出現を期待させるものであった。

 ルドゥーは、河川管理装置を円筒形で建築化した河川管理人の家案 (1780)や、所長官舎を中心に円形状に工業都市化した鹹水式製塩施設アルケスナン王立製塩所(1779,ドゥー/フランス)など、幾何学的形態の理想像を追求した。

 ブーレーは、直径150mの球体に昼夜の効果を織り込んだニュートン記念堂計画案(1784)や、古代競技場の観覧席を書架に変え、上部をトップライトを持つ巨大なトンネル状格天井で覆う王立図書館案(1785)など、対称性を重視し幾何学的マッスを強調した崇高な計画を提示した。

 また、デュランは、建築構成要素をモデュールと比例に基づいて規格化し、多様な平面計画を効率的に制作する方法を展開した。建築部材の量産化を目指して、規格ユニットを組み合わせてグリッドプラン上に再構成する建築システムを提唱し、新古典主義建築が、様々なビルディングタイプに応用可能であることを示した。

新興国家アメリカの新古典主義建築

 新興のアメリカ合衆国においては、古代ギリシアやローマ初期の政治が民主制であったことに因み、政治・学術・芸術関係などの施設に、民主主義を連想させる新古典主義様式を多用している。

 ワシントン.DCの国会議事堂(1811)やホワイトハウス(1800)、トマス・ジェファーソンによる、ポルティコとドームを持つ邸宅モンティチェロ(1809,シャーロットヴィル) や、ヴァージニア大学(1826)がある。

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