圧倒的な存在感を誇るパルテノン神殿。その荘厳な雄姿、そして様式美を極めた建築が放つデザインの強度に魅了される。人類の建築史上、最も美しい建物として古代から称賛されてきました。
建築美の極致
紀元前6世紀末、王政から貴族制を経て古代民主制が確立すると、ギリシャの都市国家ポリスに、神の聖域であるアクロポリスと市民生活の中心であるアゴラ(広場)が設けられました。
ギリシャ神殿は神の像を安置する神の家であり、祭祀を行うための祭壇は神殿の外に設けられ、特別な場合を除いて人間が内部に入ることはありませんでした。神殿には人間が礼拝するための空間はなく、外から眺められる建築だったのです。
空気が乾燥したギリシャの気候風土では、ものの輪郭がくっきりと見えるため、アクロポリスの丘に建つ神殿は、真っ青な空をバックに、アゴラからもはっきりと視認できました。このような理由から、ギリシャ建築は、周囲から自立し確固としてそこに存在する巨大な彫刻であり、ギリシャ神殿は外から見ていかに美しいかが問われたのです。
古代ギリシャ人の基本的な美の概念は「調和」であり、その具体的な表れが数的秩序をつくる「比例」でした。部分と部分、部分と全体の対比を有機的に関連づけるコスモロジーを示し、世界は均衡のとれた比例によって成り立つ調和ある存在、と捉えました。従って建築の表現においても、多様性ではなく、洗練を重ねた末に究極の調和に至った完全なる美の典型を、追い求めたのです。
特徴
アテネの高さ70mの丘に建つパルテノン神殿は、理想とされた建築美の極致です。空間に深い陰影を与え繰返しの美学をもたらす列柱は、神の家に相応しい格調高い外観を与えるための芸術的手段でした。
3段からなる階段状の基壇(スタイロベート)の上に、正面8本、側面17本の白大理石によるドリス式オーダーの柱が並ぶ、簡素で荘重な周柱式神殿です。屋根を支える水平梁(エンタブラチュア)、切妻屋根の三角破風(ペディメント)からなり、屋根組は木造であったといいます。
戦いと知恵の女神アテナの像が安置された神室と、神託の返礼品や戦勝品を収蔵する宝物庫(パルテノン)の2室で構成され、神室はドリス式、宝庫内はイオニア式オーダーの柱になっています。
ドリス式は、円柱の高さが直径の6倍の比率で、簡素かつどっしりと男性的な印象です。イオニア式は、8倍の比率で柱頭に渦巻状の装飾があり、ほっそりと女性的で優美な趣があります。
美しい比例の基準は、円柱下部の直径に対するバランスの良い比例関係(モドュルス)によって決定され、柱の直径や高さ、柱間、神殿の高さや幅、長さなどの全体に至るまで、統合的に構成する方法をシュンメトリアと呼びました。モドュルスの極値が黄金比で、1:1.618になります。パルテノンの列柱は、ドリス式のオーダーに、イオニア式の繊細さで柱間の調整を加え、調和をさらに深化させたことで、究極のプロポーションを得ました。
さらに視覚的な美の追求は、目の錯覚を補正するリファインメントを駆使する技法を生みました。水平構成材の基壇とエンタブラチュアは、中央部が垂れて見えるので、中央を少し隆起させています。エンタシスは円柱の中央部を若干膨らませる技法で、両端の柱はやや内側に傾けました。
これらは、比例に厳格にしすぎると機械的な冷たさや堅苦しさを感じるため、誤差を意図的に容認し、視覚的心理的な安定感を生み出す手法です。単なる力学的必然性を超え、人間性を尊重した高次の美的価値を大切にしました。遠く奈良の法隆寺や唐招提寺にも受け継がれていることは、よく知られています。
高度な施工技術
長い柱は約90センチごとに分断して運搬し、円筒の中心に柱をつなぐ木材のダボを嵌めこんで、滑車を使って積み上げていったようです。その精度は顕微鏡的な驚くほどの正確さで、石材と石材をぴったりと接合させる高度な建設技術が存在しました。
プロピュライア(神域の門)からアクロポリス全体を見渡すと、いずれの建物も同じ軸線上に並んでいません。正面と側面が同時にバランスよく見えるように斜めに配置され、奥行き感を強調し、より立体的に美しく見せる視覚的効果を狙っています。
乙女像の柱(カリアティード)で有名なイオニア式神殿のエレクティオンや、アテナ・ニケ神殿など、数々の施設が複雑な地形に合わせて微妙な角度で配置され、全体としては有機的なランドスケープを形成しています。
歴史に翻弄された世界遺産
人類の宝物とも言うべきパルテノンですが、その歴史に目を向けると、意外にも、時代に翻弄され悲劇の運命を辿っています。
紀元前490年ペルシャ軍に侵略され、アクロポリスは破壊されましたが、撃退します。デロス同盟の盟主となったアテネは、威厳を他国に誇示するため、15年の歳月をかけ、紀元前432年に、守護神アテナに捧げるパルテノン神殿を完成させました。
しかし、その後アテネの衰退とともに次第に輝きを失い、426年ビザンティン帝国時代にはキリスト教会に、1460年オスマントルコの支配下ではイスラム教のモスクに、改築されてしまいます。
1687年には、ベネチア軍に追い詰められたオスマントルコがアクロポリスに立て籠もり、火薬庫に使われた神殿は爆撃を受け崩壊します。ペディメントの彫刻は戦利品として略奪されました。さらに1821年、ギリシャ独立戦争の際にも破壊を被っています。悲惨な歴史です。
完成当時、外も内も色鮮やかな極彩色で彩色されていたようですが、エイジングした現状のままの白亜の殿堂の方が、魅力的で美しいのではないでしょうか。これまで述べてきたように、完成された美の極致であるパルテノンは、人類の叡智と愚行を今に伝えていますが、幸か不幸か、廃墟の美が加わって、オーラの輝きを一段と強く放っているからかもしれません。
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