サン・マルコ聖堂

世界の名建築
サンマルコ寺院と広場
サンマルコ寺院と広場  出典:ウィキペディア写真撮影:Venedig_Basilika_Andreas Volkmer

 中世、東方貿易で栄え、アドリア海の女王と称えられたヴェネツィア。その守護聖人として祀られた聖マルコの聖遺物を納めるサン・マルコ聖堂は、重なり合うクーポラと葱花形のアーチのファサードが印象的です。縦横の長さが等しいギリシア十字形平面の、交差部と4つの腕にそれぞれドームが架けられ、大ドームを中心に従属的な空間が対称かつ均等に並びます。内部は、金箔のガラスモザイクでモザイク画が描かれ、連なる円蓋やアーチが豪壮華麗に装飾され、「黄金の聖堂」と謳われています。

 アヤ・ソフィアのような流動的で上昇感を演出する空間はもはや追及されていませんが、合理的な構造架構で、規則性のあるリズム感によって秩序だった奥行きの深さを示し、窓の少ない煌びやかな空間は、闇を伴った重厚感を漂わせます。

 ローマ帝国は、395年に東西に分裂します。西ローマ帝国は、ゲルマン民族の手に落ち、476年に消滅しますが、東ローマ帝国は、ビザンティン帝国として1000年以上に亘って繁栄し、ローマとは異なる文化を生み出しました。

 ビザンティン建築様式のひとつは、前回お話ししたアヤ・ソフィアに代表されるドーム・バシリカ形式であり、オスマン帝国に影響を与え、イスラム寺院の祖型となって受け継がれます。

 そして、もうひとつの形式がギリシア十字式で、その代表格がサン・マルコ聖堂です。「地上世界」を象徴する立方体の上に、「天井世界」を象徴する円蓋が載る建築構成です。

 祭壇を中心にした典礼を効果的に行えるバシリカ式を敢えて採用せず、使い勝手が悪くなるにもかかわらず中心に意識を集中させたことは、西ローマ帝国とは異なった宗教様式の改革を推進したいという意志の表れであったのでしょう。

 天井世界のヒエラルキー(位階性)を重要視した東方教会(ギリシア正教)が神の国を可視化した、独自の建築空間だったのです。東方教会は、その後ロシアへ、ロシア正教となって広がっていきます。

 総督(ドージェ)によって統率されていたヴェネツィアは、名目上東ローマ帝国の宗主権下にある自治領とされていました。歴代総督は巧みに独自性を保ち続け、東方交易によって巨万の富を得ます。

 さらに828年、新約聖書の福音書を記述したイエスの使徒聖マルコの遺骸を、ムスリムの手に渡る前に、ヴェネツィア商人がエジプトのアレキサンドリアから運びこむことに成功。そこで、聖マルコの威光を後ろ盾に、自国の繁栄を祈念して教会堂の建設を始めたのが、サン・マルコ聖堂です。当時ヴェネツィア人が憧れた東ローマ帝国、その首都コンスタンティノープルに建てられた聖使徒大聖堂を模して、1094年に完成しました。

 二軸対称のクロス十字の平面に、神の座となる5つのペンデンティブ・ドームが架けられ、各ドームともそれぞれ正方形ユニットの4本の柱で支持されるので、独立した5つの空間でできているように感じられます。

 ナルテックス(玄関部)を含めて奥行きが76.5m、正面玄関の幅52m、翼廊部の幅62.6mの規模を持ち、ギリシア十字形のプランの三方を側廊が囲んだ平面構成です。大ドームは直径13m、高さ30mの大きさがあります。中期ビザンティン建築の傑作と称されています。

 ヴェネツィア共和国時代、サン・マルコ聖堂は、カトリック教会からの政治的独立を象徴して、総督の礼拝堂として使われ、ドゥカーレ宮殿につながり、宮廷礼拝堂のような役割を担いました。

 聖堂の正面に、行政長官邸の整然とした白い列柱廊に囲まれたサン・マルコ広場が広がります。聖堂に向かって幅が広がる台形平面の広場(piazza)になっていて、逆パースが効き、聖堂が身近に感じられます。

 聖堂前から直交方向には、南の運河に面して、海への玄関口を示すかのように2本の記念碑的円柱が立つ小広場が続き、広場全体はL字を形成している。高さ約100mのゴシックの鐘楼が、シンボルとなって2つの広場を繋ぎます。ナポレオンが世界一美しい広場と称賛しました。

ヴェネツィア人の歴史と誇りが凝縮された聖堂と広場は、市民の生活の中心として栄え、1000年を超えた今も、多くの人でにぎわい華やいでいます。

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